Jリート(不動産投資信託)が創設から20 年を迎えた。保有する不動産の総額は直近7月末時点で取得価格ベース(暫定値)20.9兆円。6月の評価額は、それを1割超上回る。不動産ビジネスの風景を変えたJリートの歩みを振り返りながら3回にわたって検証する。
「不動産鑑定士は何のためにいるのか」「この案件はどうなっているか」「本人が売る気がなくても売ってもらわないと困るよ」
三菱信託銀行時代(現・三菱UFJ信託銀行)に不動産コンサルティングを担当していたA氏は1991年のバブル経済崩壊以降に行内ではこのような怒号が飛び交っていたと当時を振り返る。
上場企業を担当し、企業のバランスシートに乗っかっている不動産をその企業の事業戦略と照らし合わせて助言をしていたが、バブル経済がはじけて債権回収に追われた。
「おカネを返してもらうためには不動産を売るしかないでしょ!」と土地信託が破綻しかけていたという。「もう普通の不動産仲介ではなかった」。半年間で1000億円を処理したといい、「当時の債権回収に伴う不動産評価は、とにかくお金に換えさせるのが目的で値段はなんぼでもよかった。バルク売却案件の中には500円もあった」。理論上の売却価格では売れずに不動産の評価・査定は破綻していた。
バブル崩壊の爪痕は深く、経済低迷から抜け出せず失われた20年、30年の引き金となり、株価とともに地価もつるべ落とし。どんな土地でも持ってさえいれば値段は上がる土地神話が消滅した。
バブル崩壊後の混沌とした中で「不動産特定共同事業法」(95年)や「金融再生関連法」(98年)、「資産の流動化に関する法律(SPC法)」(98年)、「改正SPC法」(00年)などを相次いで成立・施行させて不動産の流動化に弾みがつき、不動産証券化に関する法整備が進み、ただ単にハコモノを貸し出すビジネスから脱却し、新たな資金調達方法としての道を切り開いた。
●波乱の幕開け視界不良
証券化マーケットは長期的に拡大するとの期待が膨らみ、その不動産流動化の動きを後押しする新たな市場として、01年9月11日にJリートが誕生。三井不動産系の日本ビルファンド投資法人と三菱地所系のジャパン・リアル・エステート投資法人の2銘柄の上場でスタートしたものの、その号砲は、米同時多発テロによってかき消されるという波乱の幕開けだった。
Jリートは、オフィスビルやマンション、商業施設などを投資家から集めた資金などを使って運用資産を購入する。そこからの賃貸収入や物件の売却益を投資家に還元する仕組みとし、その配当性向を9割以上としている。
安定的なキャッシュフローが評価を受け、今でこそ62銘柄にまで拡大し、その投資対象は物流施設や高齢者向け住宅などのヘルスケア施設、データセンターなど幅広いが、当初は「証券化が不動産業界をけん引する形になる」との業界関係者の意気込みとは裏腹に、Jリートに対する世間の認知度はなかった。
●期待と不安の交錯で始動
むしろバブル崩壊後の惨憺たる状況を知っているだけに「Jリート? 不動産投資でしょ。なんかうさんくさい」などネガティブな反応が珍しくなく、投資家や市場関係者の一部では、不動産会社が系列の不動産ファンドに質の悪い物件を放り込んでグループの収益につなげる一つの手段として使う〝ゴミ箱的な器だ〟との陰口もたたかれた。
だが、この20年でJリート市場は着実に成長し、日銀の金融政策にも採用されるようになった。背景には制度を修正・改正してきたことが大きい。法制面・税制面など総合的なツールというものが整備され、バブル経済の崩壊以降の低い金利に支えられて現物不動産も見直された。法・税制の整備とともに不動産に対するマインドの正常化にもつなげた。不動産ビジネスを盛り返す器になったと評する声は少なくない。これは、収益力のある不動産が投げ売りされない市場形成に一役買っていることを映し出している。